当時の横溝の意識が反映され、鬼気迫るものを感じさせる
「鬼火(オリジナル版)」（横溝正史）
（「横溝正史ミステリ
短篇コレクション②」）柏書房
――万さん、あなたは
ほんとうに万造君ですか。
それとも、ああ、私が
あれ程探ねていたもう一人の
人物ではありませんか。
その途端黒い袍衣に包まれた
代助の体は、
旋風にあった木の葉のように、
チリチリと顫えあがりましたが、
…。
――万さん、あなたは
ほんとうに万造君ですか。
それとも、ああ、
この間から私が
あれほど探ねていた、もう一人の
人物ではありませんか。
そういって警部は
どっかとそこにあった椅子に
腰を落としましたが、
それを聞いた途端、
…。
二つの文章を並べました。
万造だと思われていた仮面の男が、
実は代助なのではないかと
気づいた警部が、恐る恐る問いかける、
横溝正史の｢鬼火｣、
終末のクライマックス場面の一節です。
下段は広く知られている
｢角川文庫折衷版｣、
そして上段は、
横溝正史の直筆原稿をもとにした
｢オリジナル版｣です。
筋書きそのものには
まったく変更はないのですが、
この｢鬼火｣、いろいろな経緯があり、
テキストがいくつも存在するという、
特殊な作品です。
〔主要登場人物〕
｢私｣
…語り手。
諏訪湖半の荒れ果てたアトリエで、
一枚の不思議な絵を見つける。
竹雨宗匠
…諏訪湖畔に住む俳諧師。
この地方の元警部。不思議な絵に
まつわる因縁を｢私｣に語る。
漆山万造
…アトリエの持ち主の画家。
諏訪郡の豪家の本家の一人息子。
陰性で胆汁質。
漆山代助
…画家。万造とは従兄弟どうし。
分家の一人息子。
陽性で多血質で交際好き。
お銀
…代助と同棲していたモデル女。
虚栄心が強い。自堕落で浮気っぽい。
お美代
…汁粉屋の看板娘。
万造に唆されて書いた艶書が原因で
代助が放校処分となる。
山崎
…ある種の運動に関係していた。
彼が預けた荷物が原因で
代助が当局に拘束される。
紅梅亭鶯吉
…田舎回りの浪花節語り。
お銀をたぶらかす。
｢鬼火｣は、知られているように、
昭和8年に横溝が喀血し、
信州諏訪において療養生活を
送っていた折に描かれた作品です。
病床に伏しても創作意欲を
振り絞っていた横溝でしたが、
体調のよい日でも
一日に3、4枚しか原稿が進まず、
大きな絶望感を
味わうことになったのです。
そのどん底から這い上がるようにして
完成させたのがこの｢鬼火｣なのです。
｢恐ろしき四月馬鹿｣が
横溝のデビュー作なら、
この｢鬼火｣は文壇への｢復帰作｣、
いや第二の｢デビュー作｣といって
いいほどなのです。
ところが、
満を持して昭和10年に発表された折、
本作品は当局の検閲に
引っ掛かってしまうという
不運に見舞われます。
当時の社会情勢と照らし合わせたとき、
本作品の持つ
異様なおどろおどろしさは、
当局の担当者には
｢危険｣と見なされたのでしょう。
いくつかの部分が削除されたのですが、
刊行までの時間が足りなかったことと、
削除部分があっても
意味はそれなりに通じるということで、
実はそのまま雑誌(｢新青年｣)に
掲載されました。
そのテキストは
｢初出検閲版｣と呼ばれています。
その後、単行本出版に伴い、
削除された部分を
修正したテキストが完成、
単行本出版とともに、
それが長らく広まっていました。
単行本は、春秋社(1935年)、
美和書房(47年)、岩谷書店(51年)、
東方社(56年･61年･63年)から
出版されています。
そのテキストは
｢改訂版｣と呼ばれています。
そうした中で、
削除前の初出誌が発見されます。
桃源社からの3度にわたる出版では、
削除部分が改訂版の末尾に
ゴチック体で付記される形で
編集されたのです。
桃源社では
｢完全版｣と名付けて出版したのですが、
｢完全｣の定義が曖昧であるため、
｢初出復元版｣として呼ばれることが
現在では多いようです。
しかしながら、改訂版も
横溝の筆によるものであり、
無視できないという立場から、
改訂版を生かしながら
削除部分を挿入するという、
折衷案が創られます。
それは角川文庫と創元推理文庫の
両方でそれぞれなされ、
｢角川文庫折衷版｣と
｢創元推理文庫折衷版｣が
生まれたのです。
冒頭に掲げた一文の、下段の方はこの
｢角川文庫折衷版｣です。
なお、｢創元推理文庫折衷版｣は、
ちくま文庫でも採用しています。
ところがさらに、
横溝の直筆原稿が発見されるに至り、
｢オリジナル版｣が
登場することになるのです。
｢オリジナル版｣は、
2014年｢小説野性時代｣に掲載され、
本書に収録されました。
つまり、｢鬼火｣には、
｢オリジナル版｣｢初出検閲版｣
｢改訂版｣｢初出復元版｣
｢角川文庫折衷版｣
｢創元推理文庫折衷版｣と、
計6種類の版が存在しているのです。
なんとも複雑なことになっています。
冒頭で記したとおり、
筋書きそのものには
まったく変更はないのですから、
どれを読んでも
大きな違いはありません。しかし、
文章から受ける雰囲気は異なります。
｢角川文庫折衷版｣は言葉遣いなどが
現代に限りなく近く、
難解な漢字も改められ、おそらく
こちらの方が読みやすいはずです。
一方、｢オリジナル版｣は
古い言い回しや旧仮名遣いが多く、
読みにくいのですが、
これこそ昭和初期の空気感、
そして当時の横溝の意識が反映され、
鬼気迫るものを感じさせます。
私は本書で｢オリジナル版｣に接し、
｢鬼火｣の本当の凄さを
体感したように感じました。
それはさておき、横溝特有の、
そのおどろおどろしい作品世界、
練りに練られた人物設定、
緻密な作品構成は、
こうして見てみると、実は本作品から
始まっているといっていいのです。
金田一シリーズの数編を読んだだけで、
横溝の戦全作品に
まだ触れていない方は、
どのバージョンでもいいので
ぜひ一読し、｢鬼火｣の真価を存分に
味わっていただきたいと思います。
〔｢横溝正史ミステリ短篇
コレクション②｣収録作品一覧〕
鬼火
蔵の中
かいやぐら物語
貝殻館綺譚
蠟人
面影双紙
塙侯爵一家
孔雀夫人
鬼火(オリジナル版)
〔追記〕
こちらもどうぞ！
ぜひチャンネル登録をお願いいたします！
〔関連記事：横溝ミステリはいかが〕
〔「横溝正史ミステリ短篇コレクション」〕
（2023.10.27）
【今日のさらにお薦め3作品】
【こんな本はいかがですか】
